昭和三十年代前半の写真


タイタニック号?違います。
青函連絡船です。このタイプはまだ蒸気船で石炭を焚いていた。
蒸気タービンなので全く振動がありませんでしたが、三等船室が貨車甲板の下にあり
貨物より乗客は下に見られていた?。窓は丸窓で喫水すれすれだったので、荒天時には
窓ガラス割れて海水の浸入を防止するため、鉄の蓋をねじ止めで締めていた。
船室にはボーイがおり、頼むとお茶のサービスがありました。チップは10円。
出港時の「蛍の光」と「ドラの音」は今でも懐かしく思い出されます。
青森駅と函館駅には赤帽がいて、客の荷物を運んでくれました。もちろん有料。
この船は洞爺丸台風で沈没した連絡船と同タイプで4本煙突が特長であった。(青森港にて)

    
             横田基地                          羽田空港
         三軍統一記念日。横田基地にて          羽田空港DC3型、コンベア、DC6型が国内の
         DC3スカイレーダー攻撃機など        主力機であった。手前のジェット機は今は無き
         まだままだプロペラ機の時代でした        就航間もないパンナムのボーイング707型機
         戦闘機はF86の時代に入っていた。       見送りや見物客で送迎場いつも満員。当時の
                                      道新に搭乗者名簿が載るくらい高い乗り物でした。
                                      このとき、大枚千円(現在では1万円くらい?)を
                                       たたいて、軽飛行機の遊覧飛行を楽しんだのが、
                                      生まれて初めて空を飛んだ体験飛行でありました。
                                      今となっては羽田で遊覧飛行があったとは思えない、
                                      のどかなよき時代でした。
 
 このころの東京(1958年頃)は経済が急成長を見せ始めた時期であったが、現在の東京と比べるとまだまだ戦後を引きずっていた時代でもあった。

 ・都電は四十数系統があった。片道13円、往復25円。乗り換え券でどこまでも行けた。現在は三ノ輪線のみ。
 ・地下鉄は銀座線と丸ノ内線(一部開通)。全線20円。もちろん赤坂見附で乗り換えができた。
 ・勝ちどき橋はまだ開閉していた。
 ・東京タワーが完成した。
 ・代々木に米軍宿舎のワシントンハイツがあった。後に東京オリンピックの選手村となる。
 ・山手線は10円と20円区間。
 ・世田谷に麦畑や藁葺きの納屋があった。まだ客車に住んでいる人もおりました。
 ・渋谷に恋文横町とかテアトル系の映画街があった。封切り映画は学生割引80円。
 ・特急「はつかり」がC62(ツバメマーク付き、昔、東海道線の「ツバメ」を引いていた)が青森まで牽引し始める。
  今でも不思議に思うのは固定式ロマンスシートの客車の向きをどのようにして変えたのだろうか。

 私はこのような時代に学生生活を送っていた。
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